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大阪地方裁判所 平成11年(ワ)9554号 判決

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

奥野信悟

神田俊之

被告

株式会社朝日新聞社

右代表者代表取締役

箱島信一

右訴訟代理人弁護士

竹林節治

畑守人

中川克己

福島正

松下守男

竹林竜太郎

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一申立て

一  原告

1  被告は原告に対し、平成一一年六月から同一三年三月まで毎月二二日限り各六万七六八六円の、平成一三年四月から同一六年三月まで毎月二二日限り二万二六八六円の支払をせよ。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。との判決並びに仮執行の宣言を求める。

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求める。

第二主張

一  原告の請求原因

1  原告は、昭和四三年一月、被告に記者として雇用され、平成一一年三月三〇日定年退職するまで、被告の従業員であった。原告は、被告を定年退職後、その嘱託として平成一一年六月四日に解雇されるまで勤務していた。

2  被告には、就業規則に、定年後五年間年金(以下、これを「新年金」という。)を支給する旨の規定があり、これにより、原告は、被告から、平成一一年四月から平成一三年三月まで新年金月額六万七六八六円の支給(前期)を、平成一三年四月から同一六年三月まで、月額二万二六八六円の新年金(後期)を受給できる権利を有していた。

3  原告は、平成一一年五月一〇日、覚せい剤取締法違反(覚せい剤所持)の嫌疑で逮捕され、被告から、同月二五日付処罰通告書をもって、懲戒解雇の意思表示を受け、同日、新年金の受給資格を取り消す旨の通告を受けた。

4  しかし、被告が新年金の受給資格を取り消す根拠はないので、原告は被告に対し、右年金の支給を求める。

二  請求原因に対する被告の認否

1  請求原因1ないし3の各事実はいずれも認める。

2  同4は争う。

三  被告の抗弁

1  受給資格取消の根拠

(一) 被告においては、従来、定年給・年金制度により、六〇歳の定年後、恩恵的な社内保障制度たる「定年給」が二年間支給される制度が存在していたが、平成四年三月、労働組合と交渉した結果、「定年給」を、五年間の支給に組み替え充実してこれを「新年金」とし、六〇歳定年から五年間支給するとの合意が成立して実施された。要するに、定年の六〇歳から六五歳までの五年間に支給される新年金は、従前の定年後六二歳まで支給されていた「定年給」を「組み替え・充実」して制度移行しただけのものであり、従前の「定年給」の支給における恩恵的な社内保障制度たる性格は何ら変わっていないものである。

ところで、「定年給、年金支給規定」の第二条二項には、「定年給受給者に不都合な行為があった場合は、その支給を停止することがある。」との条項(以下、これを「支給停止条項」という。)が置かれている。この支給停止条項は、定年給が被告における恩恵的な社内保障制度であることに鑑み、受給者に不都合な行為があった場合には、その不都合の程度を勘案して支給を停止することができる旨定めたものである。

そこで、「新年金」も「定年給」と同様恩恵的な社内保障制度であるから、制度の移行によっても「定年給」における前記支給停止条項の適用を排除する理由は全くない。支給停止条項が新年金支給条項から抜け落ちた理由は必ずしも明らかでないものの、文書作成過程における何らかの手違いによるものであって、新年金についても支給停止条項が適用されることは当然の前提である。

従って、その意味では、規定が存しないにもかかわらず、定年給に関する規定を新年金の支給に、労働者に不利益に類推しているというものではない。

(二) 新年金制度になって日も浅く、前例としては数は少ないが、平成九年一〇月の名古屋本社において、定年前から出向していた会社で定年後も客員として引き続き経理事務責任者として業務についていた者が、業務上預かっていた金銭を無断で私的に流用した件において、「客員」を解くとともに新年金の受給資格を取り消した例があり、受給者に不都合な行為があった場合には、その不都合の程度を勘案して支給を停止する運用が行われている。

(三) 本件は、原告が平成一一年五月一〇日午後七時ころ、大阪市西成区山王一丁目の路上で、覚せい剤〇・〇五グラムを所持しているところを大阪府警の捜査員に発見され、覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕されたものであるが、被告は、自社新聞紙上等にて常々覚せい剤の害悪を指摘し覚せい剤事犯を厳しく糾弾し続けているところ、原告が被告の新聞記者という立場にありながら、自ら覚せい剤取締法違反を犯し、その逮捕が新聞、週刊誌などで報道されるに至り、これによって、被告は、社会的信用、名誉を著しく失墜させられたのである。そこで、原告の行為は、就業規則第七六条一項三号「法規に触れるなど、本社従業員としての体面を汚したとき」に該当するので、「懲戒解雇」事由に該当するとともに、前記支給停止条項にいう「定年給受給者に不都合な行為があった場合」に該当すると言わざるを得ず、新年金の受給資格を取り消す事由はある。右判断は被告の裁量的判断であるところ、その裁量権に逸脱がなく、社会通念上も相当である。

(四) なお、新年金を支給する趣旨が被告会社における恩恵的な社内保障にある以上、その支給の前提にある元従業員に対する信頼関係が破壊され、被告の名誉・信用を失墜させる行為があった場合には、たとえ支給停止条項がなかったとしても、新年金の受給資格を取り消す(打ち切る)ことができることは当然である。

2  エストッペル(禁反言の法理)について

原告は、平成一一年七月八日、「懲役一年六月三年間執行猶予」の有罪判決が言い渡され、既に確定した。

ところで、原告は、同年七月一日に行われた第一回公判において、「被告から懲戒解雇され、客員の称号を停止され、新年金を取り消されたので当面毎月六万円ほどもらえるはずだった年金が、四月に一度受け取っただけで今後は出なくなる。」と供述した。そして、弁護人は「会社に処罰され、実名で報道されるなど、社会的制裁も十分に受けているので執行猶予付きの判決をお願いしたい。」と弁論を行った。以上の経過を踏まえ、裁判所はその量刑理由の一つとして、被告はその職場を懲戒解雇により失い、年金も停止されるなど社会的制裁も受けている」ことを摘示した上で、寛刑を言い渡したものである。

そうすると、以上のような供述等を行いながら、他方で原告が被告に対し停止された年金の支給を請求することは、エストッペル(禁反言の法理)によって、許されるものではないと考える。

四  抗弁に対する認否

1(一)  抗弁1(一)事実の内、被告において、従来、定年給・年金制度により、六〇歳の定年後、「定年給」が二年間支給される制度が存在していたこと、平成四年三月、六〇歳定年から五年間支給するとする「新年金」制度が設けられたこと、「定年給・年金支給規定」の第二条二項には、「定年給受給者に不都合な行為があった場合は、その支給を停止することがある。」との条項が置かれていたことは認め、「新年金」が「定年給」と同様に恩恵的な社内保障制度であって、「定年給、年金支給規定」の支給停止条項が適用されることは否認する。

新年金受給資格は、就業規則に規定された労働者の法的権利であるから、懲戒処分によってその権利を剥奪するには就業規則に制裁の定めを置くことが必要というべきである。しかるに、被告の就業規則には、そのような規定はない。被告は、就業規則に規定が存しないにもかかわらず、定年給に関する規定を、新年金の支給に、労働者に不利益に類推しているものであり、被告の前記原告に対する新年金受給資格を取り消す処分は、就業規則に根拠を有さない違法な処分である。

(二)  抗弁1(二)事実については、受給者に不都合な行為があった場合に、その不都合の程度を勘案して支給を停止する運用が行われていることは否認する。

(三)  抗弁1(三)の事実の内、原告が覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕されたこと、これが被告の社会的信用、名誉を傷つけたことは認め、これが就業規則の懲戒解雇事由に該当することは争わないが、新年金の受給資格を取り消す事由となることは争う。

(四)  抗弁1(四)は争う。

2  抗弁2は争う。禁反言の法理と本件の原告の行為とは全く無関係である。禁反言の法理は、取引の安全のため、一つの行為がなされ、それを信頼した他の者が右行為を前提に新たな行為をした場合、前提となった行為の行為者はその行為を翻すことができないという原則である。従って、原告の刑事法廷の言動に右原則を適用することはできない。

また、原告は右刑事法廷において、新年金の支給を取り消されたという事実は供述したが、その処分を争わないとは述べておらず、前言を翻したわけではない。

理由

一  (証拠略)、弁論の全趣旨によれば、次のとおり認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  被告においては、昭和三三年には、従業員の停年を五五歳とし、停年に達した従業員の勤続年数に応じて最長七年間の停年休職期間を設け、その期間満了時退職とし、停年休職期間中は停年休職給を毎月支給するとの制度があり、停年休職給については停年休職期間中に不都合な行為があった場合は、直ちに退職として、その後は停年休職給を支給しないとの規定を置いていた。なお、右規定では、停年休職期間満了時に退職となると規定しているが、実際は停年時に退職となる扱いであった。また、この規定は停年に達しない者についても被告の承認を得て退職した場合に準用できるとしている。

その後、昭和五七年に停年が五六歳定年制となった際、「定年、定年休職規定」が改定され、停年休職期間の最長は六年となった。被告は、同年一二月には、適格年金制度導入を決定したが、定年休職給については、名称を「定年給」と変更しただけで、実質的な変更なく存続させた。そして、定年が六〇歳に延長されることによって、定年退職者に対する定年給の支給期間は二年となっていた。

2  被告は、平成四年三月、労働組合からの要求に応えて、これまで二年間支給することにしていた定年給を五年間の支給に組み替え充実させ、六〇歳から五年間の保証期間付き新年金とする旨提案し、労働組合の同意を得て、就業規則中に、「新年金支給支給規定」が設けられた。その内容は、勤続年数一〇年以上の者が対象であるが、勤続二五年以上の場合、従来の二年間の各月の支給額を減額し、期間を五年間とするとともに、厚生年金の支給される六二歳以後はその第三加算年金分を控除した額を支給するというものであり、また、一時払いを選択できるもので、その財源も変化はなく、労働者は無拠出である。従来の定年給制度は、「定年給、年金支給規定」において、定年に達する前に退職した者に対する制度として残された。その第二条二項には、従前と同様に、「定年給受給者に不都合な行為があった場合は、その支給を停止することがある。」と規定されているが、「新年金支給支給規定」には、同趣旨の規定はない。「新年金支給支給規定」では、「新年金および年金は、この規定により支給する。」と定めて、支給要件、勤続年数区分による支給期間、支給額の算出根拠等を規定している。

二  以上に鑑みるに、新年金は、退職金制度とは別個の制度として導入されており、沿革は古く、労働者の無拠出によるものであり、恩恵的な制度として設けられた側面は否定できないが、勤続年数によって支給期間、金額が増減することはこれが年功報償としての性格を有するものということができる。そして、この制度は就業規則に明文化され、労働契約の内容となっているもので、新年金受給権はこれに基づいて発生する権利であるから、これが恩恵的な側面を有するからといって、支給者において、根拠なくその受給資格を剥奪できるものではない。すなわち、受給資格を剥奪できるのは、支給停止条項が労働契約の内容となっている場合に限られるというべきである。ただ、労働契約の内容については、就業規則の合理的な解釈、労使の慣行など総合的に検討して判断されるべきものであるから、形式的な文言だけから結論が出るものではない。

そこで案ずるに、前述のとおり、「定年給、年金支給規定」第二条二項には、「定年給受給者に不都合な行為があった場合は、その支給を停止することがある。」と規定されているが、「新年金支給支給規定」には、同趣旨の規定はなく、現行の就業規則においては、「新年金支給支給規定」は、「定年給、年金支給規定」とは別個の規定として設けられており、前者が後者の特別規定という関係にはないから、後者の規定を新年金に直接適用することはできない。しかし、新年金制度制定前の停年給制度、定年給制度においては、一定年限の勤続者に対して、定年退職、合意退職を問わず、停年給、定年給を支給する制度であり、これらの制度については、支給停止条項があり、昭和三三年以降、これに沿った運用がされてきたものであり、新年金制度が実施されるまでは、労働契約の内容としても、定年退職者に支給される定年給に支給停止条項が存在したことは疑いを入れない。新年金制度は、定年給対象者の内、定年退職者についてのみ、新年金として別途規定するに至ったもので、合意退職者については従前の定年給制度がそのまま存続することになったのである。そして、新年金制度は金額、支給期間等に変更はあるものの、制度そのものの性格は、新年金となることによって定年給から変更になったとはいえない。そうであれば、定年給における支給停止条項を新年金において排除しなければならない理由はないし、被告は、新年金制度においても、受給者に不都合な行為があった場合は支給を停止できるとの考えで、本件以外にも、同様の取扱いをしたことがあり(〈証拠略〉)、労働者にとっても、定年給と新年金とで異なる扱いを受けることの期待があったともいえない。新年金は、退職に伴い発生する権利であり、この点では退職金に類似するが、退職金については、懲戒解雇事由があるときはこれを支給しないものとされており、新年金について、懲戒解雇事由があるときでもその支給を停止されないとの期待を持つ合理性はない。してみれば、新年金制度の導入によって、定年退職者の定年給について、一定の場合に支給が停止されるとの労働契約の内容が変更になったとはいえないのであって、定年給と性格が同じである新年金についても、一定の場合に支給が停止されることは労働契約の内容になっているものというべきである。

以上によれば、被告は、年金受給者にその雇用期間中の功績を無にするほどの不祥事があった場合には、年金の支給を停止できるというべきである。

三  原告が、原告が覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕されたこと、これが被告の社会的信用、名誉を傷つけたことは当事者間に争いがない。原告が被告の新聞記者として立(ママ)場にあったこと、被告が新聞社という立場から、覚せい剤の害悪を報道し、これに関する犯罪を糾弾してきたことに(ママ)を考慮すれば、原告の行為によって生じた被告の社会的信用の低下は著しいものがあるといえ、これは原告の雇用期間中の功績を抹消するに足りる不祥事であって、年金受給資格の停止事由となるというべきであり、その受給資格取り消しの意思表示についてこれを無効とする理由はない。

四  以上によれば、原告の本訴請求は理由がないから、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 松本哲泓)

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